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崩れずのエチュード

20210428_0

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ヨーゼフが入室しました
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無題100%


F市支部の建物の一角に、古ぼけたアップライトピアノが安置された部屋がある。
どうしてこんなところに置かれているのか。
誰が置いたのか。
覚えているひとはおそらくもう誰もいないけれど、とにかくその部屋にはピアノが置かれていたのだ。

そしてこのF市支部にはとある欧州出身の御曹司が所属していた。
現在大絶賛休養中の彼はやたらと暇を持て余し、その上結構な音楽好きだった──…



ヨーゼフ
「……、」どうしてこんなところにピアノが。
不思議に思いながら、そうっと褪せかけた黒い蓋に触れる。
ちらちらと埃が見えはしたが、掃除の際に拭かれたりはしているんだろう。
古びてはいるが、十分に綺麗だ。
そうっと手をかけて蓋を開けてみる。
「これはまた、結構な年季物が……」
金色をしたメーカーの刻印はほぼ剥げかけて、鍵盤もやや黄ばんでいる。
おそらくこの楽器に触れたのはひとりやふたりではないんだろう……自分しか弾かなかった実家のグランドピアノのことを思い出しながら、程よく摩耗した白鍵をそうっと押し下げる。
「………驚いた。調律はされているのか」
ポーン、と想像よりはるかに明るく響いたAの音にまばたきをして。
「……ふむ」
こうも綺麗に鳴られるとは思っていなかった。
小さく首を傾げて考え込む。

せっかくだし、周囲には誰もいないし。そして時間なら山ほどあるし──
「……、…………」
「……少しだけなら、いいか」
何に対しての言い訳なんだろうなあ、などと思いながら椅子を引いて腰掛ける。
だいぶ久しぶりだし、ちょうどよく楽譜なんかないけれど、まあいくらか指が覚えているものもあるだろう。
手を緩く2、3度握ってから、静かに鍵盤の上にのせて──
(ひとまずは──音階練習(スケール)からでいいか)
何を考える必要もない。オーヴァードになる前は毎日のようにさらったものだ。
感情も強弱も敢えて込めず、ただひたすら正確に、乱れのないように。
長調(ドゥア)から短調(モール)へ、全音階から半音階へ。
(思っている以上に覚えているものだなあ)
そんな感慨を抱きながらも、指先はひとつの淀みもなく。
否、よどみがあってはならない。
音楽に揺らぎは必要だが、その根底となるスケール練習に求められるのはとにもかくにも正確さだ。
速度にも、音の立ち上がりにも、ブレがあってはならない──
……思えばプロを目指すわけでもないのに、随分と厳しかったものだ。
そのおかげでこうして戯れにでも奏でられるというのはあるのだけれど、殆ど同時期にレッスンを受けていた弟は辟易した顔をして──いたような、気がする。
母か祖母にも「飽きないの」と問われたこともあった、ような。
どちらに聞かれたんだったか──答えをまともに返した記憶がないからきっと母だろう。
なにせ俺は、この単調極まりない練習曲がとにかく好きだった。
延々と一時間、淡々と二時間。
飽きるだなんてとんでもない
確かにすぐに結果が見えるわけではないが。
積み重ねれば積み重ねただけ──
「………、ああ」
よくよく考えれば、音楽に限らず。俺はそういうものが好きだ。
いわゆる毎日こつこつ、だとかそういう類だ。
パズルのピースを一つずつ丁寧に埋めていくのも好きだし、ミカンの筋を取っていくのだって
一度始めるとやめられない。
地味な作業を延々と続けて、思いもよらぬ完成形が出てきたときが、一番うれしいというか──
 
「……」
ぴたり、と手を止める。
──小さな閃きが見えた、ような気がした。
ここ数日ずっと閉じ込められていた、ぼんやりとした靄の中に。
(……見失ったわけではない、のかもしれない)
そもそもこれといって遠い目標を抱いた記憶など、思い出す限りない。
目の前にあるものに一心に取り組んで、ひたすらに積み重ねて。

そしていつのまにか、山をひとつ登り終えていたことに気づくことを繰り返して、きたような──
 
「……」ぱちぱち、と瞬きをして。
そこからはー、と溜息をひとつ。
考えても悩んでも仕方がないはずだ。
最初から答えを持ち合わせていないどころか、そんな答えを求めてすらないのだから。
「これは、もう──…」
目の前にあるものに集中するしかあるまいなあ。
そんなことをぽんやりと呟いては、手元に視線を降ろす。
くすんだ象牙色の鍵盤をもう一度、ぽろんと鳴らして。
「きっと全く何も結果が生まれないということはなかろうし、なあ」
 
 
 

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